皆さん、こんにちは!
松山出身の落語家、林家染太です。
いつも大変お世話になりまして、本当にありがとうございます。
僕の経歴を申し上げますと、北久米小学校、久米中学校、松山北高を経まして、【四国の東大】と言われております、難関中の難関、高松高等予備校に進学。(笑)
その後、関西大学に進学し、卒業後、四代目林家染丸に入門しました。
只今、落語の殿堂、天満天神繁昌亭をホームグラウンドに、全国各地で独演会、また、英語落語もしておりまして、今まで約30カ国以上、海外公演を開催しております。
松山の思い出と申しますと、小中学校の時は、相撲部に所属しておりました。
相撲が大好きだったワケではなく、太っている生徒は皆、相撲部に入らなければならないという通称【デブ狩り】にあい、入部しました。(笑)
松山市の大会では、ベスト4まで行ったのですが、試合中にまわしが外れてしまい敗退。決まり手が【モロだし】(笑)
これを機に相撲を廃業しました。
高校時代は、応援団に所属しておりました。
野球やサッカー、ラクビーの応援にはよく参りましたが、1度だけ、登山部の応援に行くことになりました。
これが大変で、登山部の競技会場が、なんと石鎚山山頂!(笑)
団旗など持参で登りましたので、ホントに死ぬかと思いました。
大学時代は、授業はほとんど【自主休講】致しまして(笑)、寄席や落語会ばかり通っておりました。
卒業単位もギリギリだったのですが、ドイツ語のテストの時、先生が「この試験は、何も持ち込んでもOK」という有難いお言葉を頂きました。
皆は、辞書やパソコンを持ち込んでいたのですが、「これでは芸がない」と思いまして、僕はなんと、友人の【ドイツ人留学生】を教室に持ち込みまして、ドイツ語のテストを全て解いてもらいました。(笑)
これが先生にハマり【優】を頂き、めでたく卒業することができました。
大学在学中に、落語家になることを決意したのですが、両親から猛反対にあいました。
特に、父は愛媛大学工学部の名誉教授をしておりまして、まさに絵に描いたような堅物。
結局、許してもらえず、いわば勘当された状態で、入門致しました。
落語家は入門しますと、内弟子修行がありまして、師匠のお宅に住み込みで、落語、三味線、踊りの稽古のほか、掃除、洗濯、料理、車の運転など身の回りのお世話を3年間休みなく行います。
入門して半年くらい経った時に、師匠に初舞台を頂きました。
両親とは、ずっと疎遠でしたが、初めて実家に手紙を書きました。
「親不孝をして本当に申し訳ございません。この度、師匠から初舞台を頂きました。もし、宜しければ観に来てもらえませんでしょうか?宜しくお願い致します」
しかし、まだ怒っていると見えまして、残念ながら親から返信はありませんでした。
とうとう初舞台の日。
トップで高座に上がり、客席を見渡したのですが、両親はいませんでした。
「やっぱり怒ってるんやなあ。仕方がない。よし、これからは俺1人で生きて行こう」とパッと真下を見たら、最前列の席に両親が座ってました。
まさかそんな所に座っていると思ってもいなかったので、一瞬、息が詰まりそうになりましたが、必死に落語を続けました。
しかし、やはり気になって、チラッと両親を見ましたら、親も色んな想いがあったのでしょう、必死に落語を喋っている息子の姿を見て、泣いておりました。
僕もグッとなりましたが、必死で堪えて、何とか初舞台を終えました。
落語会が終了し、両親が師匠の楽屋に挨拶に参りました。
僕は内心、どうなるのだろうと不安だったのですが、
楽屋に入ると、いきなり父親が床に土下座をしまして、
「師匠、うちの息子はどうしようもないバカ息子です。バカ息子なんですが、何卒宜しくお願い致します」と、何度も床に頭をこすり付けるのです。
師匠もすぐに「お父さん、お気持ち重々分かりましたら、どうぞ頭を上げてくださいませ」と。
その後、両親と和解しまして、今では僕の1番の応援団になってくれてます。
本当に有難いですね。
もう1つ、両親に感謝しなくてはならないことがあります。
それは名付けてくれた名前です。
僕の本名は【志行(しこう)】と言います。
そして、うちの師匠の本名は、なんと【行志(こうし)】と言うんです。
奇跡的に漢字が全く同じなんです。
師匠は、この偶然を気に入って下さって、入門が許されました。
僕は、あれだけ猛反対していた両親のお陰で、落語家になれたんです。
世の中って不思議ですね。
これからもご縁を大事に、また、愛媛県出身を誇りに、一生懸命、芸道に精進して参りますので、応援宜しくお願い致します!
林家染太拝
林家染太独演会in繁昌亭
英語落語独演会inアメリカ
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